2017年11月19日

山の辺の道 Ⅲ  

015s.jpg
一昨日(11月17日)は木幡公民館・高齢者許乃国教室
歴史探訪サークルから 「山之辺の道 Ⅲ」 に参加してきました。
指導の岡井先生を含め29名が集合。
上はJR天理駅前で出発前のストレッチ体操の模様です。

020s.jpg
JR天理駅から本通を通って天理教教会本部・南礼拝殿前で
岡井先生から説明を受けています。
先生の資料にも「教祖・中山みき 様」のことが詳細に掲載され嬉しいことでした。

001-isonokami.jpg

026s.jpg
本通を抜けると、先ずは ① 石上神宮 です。
柿本人麿(生年:645年前後)の句碑がありました。

をとめらが袖ふる山の瑞垣みづかきの久しき時ゆ思ひき我は

【通釈】少女たちが袖を振る――その「ふる」ではないが、

布留山に古くからある瑞垣

――そのように久しい昔から、ずっとあの人を思い続けていたのだ、私は。


【語釈】◇をとめら 原文は「未通女等」。未婚の少女ら。

◇袖ふる山 「袖」までが「振る」の縁で地名「布留」を導く序。

布留山は今の天理市布留、石上神宮のある山。

◇瑞垣 神域を限る垣。普通石垣であった。

「瑞垣の」までが「久しき時」を起こす序。


034s.jpg
上は石上神宮の拝殿で国宝です。

0001-honden.jpg
上は石上神宮の本殿です。
元々、背後の広大な布留山が神体とされていましたが、
大正2年(1913年)に本殿が新築された由。

0001-utiyama.jpg
上は楼門前の丘の上にある摂社出雲建雄神社です。
次に行く、内山永久寺跡にあった鎮守住吉社。

明治時代初期の廃仏毀釈で荒廃していたものを
大正3年(1914年)にこの地へ移したとのこと。

中央に通路を設けた割拝殿で、この様式としては
最古の例で、国宝に指定されています。

0001-c42_1s.jpg
上は石上神宮の神庫(ほくら)に伝世した古代の遺品で、
刀身に記された銘文により「七支刀」(しちしとう)と称しています。

特異な形をした鉄製の剣で、全面が鉄銹(てつさび)に
覆われており、伝世以来当神宮の御神体同様のものとして
奉斎されてきました。製作年については、
現在の銘文解釈によると西暦369年と考えられています。

また、この七支刀は『日本書紀』の
神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる
「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられています。

056s.jpg
七五三詣で可愛いお子達も来ていましたヨ !

00000001-kinen-s.jpg
石上神宮の楼門前で参拝の方に記念写真を撮って頂きました。
が、逆光で一部の人が真っ白になってしまって残念な記念撮影となりました

この楼門は、鎌倉時代末期、第96代・後醍醐天皇の
文保2年(1318)に建立されたことが知られ、
重要文化財に指定されています。
 上層に鐘を吊るしていましたが、
明治初年の「神仏分離令」により取り外され売却された由。
二重の正面に掲げてある木額の「萬古猶新(ばんこゆうしん)」の字は、
明治・大正の元老として有名な山縣有朋の筆によるものとの由。

089s.jpg
次は ② 内山永久寺跡 で、先生から説明を受けています。

088s.jpg
内山永久寺は永久2(西暦1114)年、鳥羽天皇の勅願により創建され、
時の年号から永久寺と称されました。また、寺域が五鈷杵(ごこしよ)の形をし、
内に山が一つあったので内山の名を冠して「内山永久寺」と称したといわれています。

109s.jpg

095s.jpg
今はこの池が残っているだけです。が、
春には周辺に桜が咲いて綺麗なようです。

080s.jpg
上の池の傍に芭蕉の句碑(上)とその解説(下)が在りました。

うち山やとざましらずの花ざかり 
        宗房(芭蕉)
  この句は、松尾芭蕉(1644-1694)が江戸に下る以前、
まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃
の作品。  いつの頃にこの地を訪れて作られたか、
それは明らかではないが、寛文10年(1670年)6月頃刊行の
『大和順礼』(岡村正辰遍)に収められているところから、
この年以前、すなわち23、4歳の頃までに詠んだものとの由。

〔句意〕今、内山永久寺に参詣してみると、
見事なまでに満開の桜でうめつくされている。
 土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが
外様(よその土地の人)は知るよしもないのである。

079s.jpg


098s.jpg
私たち一行は、上の台地の休憩場で昼食を頂きました。
とても良い気候で、A幹事持参のビールも頂戴し
周囲に恐縮しながらも一段と美味しく昼食を頂けました。
有難うございました  ⛄ 。

115s.jpg
昼食も終え次の目的地へ行く中の周囲では
数珠つなぎの柿の実が見事になっていました(上)。

122s.jpg
夜都伎神社へ行く途中、トイレ休憩も兼ねて天理観光農園へ。

134s.jpg
天理観光農園では、今時分にも桜が咲いておりびっくりしましたが
四季桜という品種で春と秋に咲くそうです。


141s.jpg
ようやく ③ 夜都伎(やとぎ)神社に到着(上)。

今回、行けなっかたのですが、 169号線から51号線を超えて真っ直ぐに
東に延びた参道があり、途中に朱の鳥居と「式内夜都岐神社」
と刻まれた社号標が建っている由(下)。

0001-akaitorii.jpg
その参道を突き当たりに、
「山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱に立つ見ゆ」
と刻まれた石碑があり、左手(北方)へ進むと境内。
入口には石の鳥居が立っている(上の上)。

宮山(たいこ山)と呼ばれる前方後円墳が境内。
境内の中央には萱葺の拝殿があり、拝殿扁額には「夜登岐神社」。
拝殿の後方に、朱の垣に囲まれて五つの社殿が鎮座している。


五つの社殿は中央が一番大きく、左右に行くほど小振りとなっている。

中央の大きな社殿が武甕槌神を祀る本殿。
右手の小振りの社殿が比賣大神を祀り、
その右手の、さらに小振りな社殿が境内社の琴平神社(大物主命)。

本殿の左手の小振りの社殿が経津主命を祀り、
その左手の、さらに小振りの社殿が天児屋根命を祀る。

琴平社を除く、四社殿が当社の本殿ということになる。

また、朱の垣の左手に、さらに垣に囲まれて八坂神社(牛頭天王社)があり、
その西側に鬼子母神の小祠が祀られている。

明治維新まで六十一年毎に春日大社若宮社殿と鳥居を下付されており、
現在の本殿は、明治三十九年に改築されたもの。

創祀年代は不詳。

乙木町には、春日神社と夜都岐神社の二社があったが、
竹之内の三間塚池と、夜都岐神社の社地を交換し、
春日神社に夜都岐神社を合祀して、夜都岐神社と改称したらしい。
よって、当社は、旧春日神社ではあるが、
式内社・夜都伎神社の後継社とされている神社。

四本殿の北にある八坂神社が、合祀された夜都岐神社であるともいう。
また、式内社・夜都伎神社の旧社地には、現在十二神社が鎮座している。

江戸時代に、夜都岐神社社地と池を交換したことになるのだが、
乙木集落が、いかに水不足に悩まされていたかがうかがえる。

「夜都岐」の社号は「やつき」「やとき」「よとき」などと読まれるが、
「夜」は「於」の誤記であるとして、「おとき」が正しいという説もある。
鎮座地が、乙木であることから、説得力のある説ではある。

また、『石上振神宮略抄』にある長滝町日の谷(火の谷)の竜王社は
「夜都留伎神」とされて、当社の上社と考えられており、
乙木の人々は旱魃の時の雨乞のため、竹之内峠を越えて詣でていたといい、
「夜都岐」は、「夜都留伎」からの変化であるとする説もある。
当社の祭礼の際には、四本殿と琴平社、八坂社、鬼子母神の他に
火の谷竜王社へ遥拝を含めた八つの御供が供されるという。

当社の東方に「鹿足石」という石があり、
武甕槌神が春日影向の途中に、立ち寄った時の神鹿の足跡であるといい、
その傍らに、武甕槌神が休息した乙女の松があるらしいので、
「乙木」という地名は、「夜(於)都岐」ではなく、
この松を起源とするものかもしれないが。

境内社の八坂神社は、合祀された式内社・夜都伎神社ではなく
明治八年に廃絶した薬師堂から、琴平社とともに遷座したという説もある。

本殿の屋根に藤紋が付けられていたが、
春日移しの社殿なので、当社の神紋かどうかは未確認。


参道入口の鳥居と奥に社域の森

続く
次へ
posted by osamu ちゃん at 22:25| 京都 ☀| Comment(3) | 歴史探訪サークル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月04日

木津の史跡を訪ねて  他

0001s-マップ.jpg
6月2日(金)、許乃国教室歴史探訪サークルから
「木津の史跡」の一部を訪ねてきました。
当日はご指導の岡井先生以下
41名の会員がJR木津駅に集合。

012s.jpg
A幹事、指導のもとに全員で出発前のストレッチ体操です。

015s.jpg
JR木津駅から ① 御霊神社 へ向かって歩いていますと路端に
大きな太陽光パネルが並んでいました(上)。

020s.jpg
上が御霊神社正面です。
022s.jpg
拝殿正面(上)と拝殿の中(下)です。
053s.jpg

036s.jpg
本殿は流れ造りの一間社です(上)。 以下はネットから参照。

御霊神社(ごりょう じんじゃ)は、木津川河岸の南に位置している。「木津の御霊」ともいわれ、木津郷の産土神として祀られてきた。
 祭神は、天穂日命(あまのほひのみこと) 、天津彦根命(あまつひこねのみこと) 、活津彦根命(いくつひこねのみこと)。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)により生まれた男児のうちの次男、三男、四男を祀る。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、876年、創建されたという。
 かつては、大路村(木津川市)にあり、その後移転したという。
 江戸時代、1730年、現在の社殿が建立された。
 現代、1983年、造営、整備されている。
◆宮座 神事執行などに際して、氏子内部で独占的機能をもつ集団である宮座がある。
 木津御輿太鼓祭(木津祭)では、総取締「年番」が当てられ、各町の長老が就く。祭礼の際に太鼓台は、宮座の年寄が列座した中を三周する。
◆年間行事 木津市の指定無形民俗文化財「木津御輿太鼓祭(木津祭)」(10月第4土・日曜日)が知られている。
 祭りは江戸時代末期に、豊作を感謝して始まったという。かつては9基の布団太鼓台(御輿)が、2日間にわたり御霊神社、田中神社、岡田国神社の三社を渡御していた。
0001-index-01.jpg

 太鼓台組合の布団太鼓台には、彫刻を施した台に太鼓が組み込まれている。木枠をビロードで包んだ布団が三段に積まれ、屋根形にしている。台に子どもが乗り、打ち鳴らす太鼓に合わせて台が繰り出す。夜には、台に提灯がともされ町内を練る。
 現在は5基の台が、土曜日、日曜日のいずれかの1日に、御霊神社、岡田国神社のいずれか一社に参詣する。

058s.jpg
次は ② 上津(こうづ)遺跡です。

上津遺跡は、木津川の水運に関係した奈良時代の官衙(かんが)です。

 昭和51年に発掘調査が開始され、今までに160メートル以上も東西に延びる溝、これに並列する柵列、三面に廂(ひさし)をもつ高級な建物を含む数棟の掘立柱建物、多数の土壙(どこう)などが発見されています。

 またこれらの遺構に伴って多種多様の遺物が出土しています。このなかには、当時の最高級の土器である三彩(さんさい)・二彩(にさい)陶器や、官人が用いていたと考えられる円面硯(えんめんけん)・転用硯(てんようけん)・帯金具・鞘尻金具(さやじりかなぐ)などがあります。他にも当地の需要をはるかに越えた量の須恵器(すえき)や、当地で葺かれていたとは考え難い瓦などがあって、これらは他処から運んできたものと考えられます。

062s.jpg

 以上のようなことから当遺跡は、宇治川・桂川と合流し淀川となって大阪湾に注ぐ木津川の水運を利用して、

各地から物資を大和に運ぶために国家によって設けられた施設と推定されました。

 文献によると、奈良時代の木津川(当時は泉川)南岸は、「泉津(いずみつ)」と呼ばれる港が開かれ、

平城宮や南都諸大寺の出先機関「木屋所(こやしょ)」が設置されていたことがわかります。

この「木屋所」は、木材を始めとする各種の物資の調達を役目としていて、当遺跡と多くの類似点が見受けられます。

おそらく上津遺跡は、この「木屋所」もしくはこれに類する施設であったと考えられます。


066s.jpg
次は ③ 安福寺 です。
068s.jpg
安福寺は西山浄土宗の寺院で、境内には、平清盛の五男で治承4年(1181)に東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした、いわゆる「南都焼討」を行った平重衡の供養塔と伝えられている十三重石塔があります(下)。
寿永3年(1184)に一ノ谷の戦いで平氏は源氏軍に大敗を喫し、このとき平重衡は馬を射られて捕らえられます。その後、平氏滅亡後、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって重衡は南都へ引き渡され、木津川畔で斬首されました。
また、安福寺本尊の阿弥陀如来像は重衡の引導仏と伝えられています。
079s.jpg


0001-sigehira-03.jpg

 この ④ 平重衡首洗池 で首を洗い持参したと伝えられています(上)。

082s.jpg

その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが、

一向に実らず、このことから不成柿と称せられています(上)。


092s.jpg
次は ⑤ 大智寺 です。
泉大橋(国道24号線)の場所には、かつて奈良時代に行基が橋を架けたという。
その後、平安時代に橋は洪水で流されたままになっていたが、鎌倉時代、泉橋の橋柱に文殊菩薩像(下)
104s.jpg
0001-daichiji05.jpg
を刻んだ西大寺慈真和尚を開基として橋柱寺と称する寺院が建立されました。
その後、寛文9年(1669)本寂和尚によって再興し、このときに寺名を橋柱山大智寺と改めました。
本尊の文殊菩薩は重要文化財、本堂・庫裏・鐘楼堂・山門・附石造十三重塔は京都府登録有形文化財、
十一面観音(下)は重要文化財に指定されています。
0001-daichiji06.jpg
建築は京の宮大工による質の高いもので、これだけの伽藍は当時の建造物としては珍しいものです。

121s.jpg
次は ⑥ 和泉式部の墓 (上) です。
口碑によればこの地は和泉式部生誕の地といわれ、
これに因んで町名はもと泉町という。

高さ約130cmと小振りながら鎌倉前期の造立だとされる。

和泉式部の墓は京都「誠心院」のものが良く知られていますが他にもたくさんあるようです。


138s.jpg
昼食場所の木津川市・木津グラウンドに着きました(上)☀。
早速、お弁当を出して先生等と楽しい昼食です。
適当に風も吹いて涼しく頂けました。

143s.jpg
157s.jpg
昼食後、最初の見学場所は ⑦ 正覚寺洪水供養石仏(上) です。

正徳二年(1712)辰八月十九日の洪水によって、此川筋の近在辺境の人民おぼれ、死するもの幾千人という。

その三周期にあたって建立された由。もとは堤防に安置してあったが、流失のおそれがあるので、当寺へ移された。



168s.jpg
次は ⑧ 木津惣墓五輪塔 です。
木津惣墓五輪塔は、花崗岩でできた高さ3.6メートルの典型的な鎌倉時代の五輪塔です。

 惣墓とは、一般庶民の間に個人墓が普及する以前の葬礼の一形態で、いわゆる共同墓地を意味しています。

現在は、五輪塔を残して他の地蔵や石碑は木津町大字木津小字片山の東山墓地へ移されています。

 五輪塔は、上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪から成り立っています。

木津惣墓五輪塔の空輪は、他の部分とバランスがとれていないので、後に補われたものと思われます。

また、水輪には阿弥陀を表す「キリーク」と呼ばれる梵字が刻まれ、地輪の東・北・南面には、下記の刻名があります。

<東面>
同七月十五日阿弥陀経  一万返光明真言□□ 和泉木津僧衆等
廿二人同心合力  勧進五郷甲乙諸  人造立之各毎二
□彼岸光明真言  一万返阿弥陀経  四十八巻誦之可
廻向法界衆生   正応五年壬辰八月日

<北面>
木津郷□□□廿坪内自  未申角木屋所一段自  藤□□未以光明真言
木・・・・・・・・分 □者・・・・・・時正   永仁四年八月十九日

<南面>
永禄五年壬戌  妙林□□ 道心禅門  妙心道心  十月二十七日
妙□ 善通  妙□  □□  □□

 東面の正応五年は西暦1292年、北面の永仁四年は西暦1296年、南面の永禄五年は西暦1562年にあたります。

 木津惣墓五輪塔の建立要因は、銘文にも記されておらず不明ですが、伝承によれば、木津川の氾濫で死亡した人々の供養のために建立されたとしています。

 なお、この五輪塔は、昭和32年2月19日に重要文化財に指定されました。


172s.jpg
途中、民家で珍しい ブラシの木の花 ? を見つけましたヨ!

186S.jpg
最後は ⑨ 相楽(さがらか)神社 です(上・下)。
189s.jpg
相楽神社は木津町大字相楽(さがなか)地区(旧 相楽(さがなか)村) [ 北ノ庄、大里、曽根山の三区]の産土神として祀られてきました。創立は定かではありませんが、明治10年(1877)に『延喜式』神名帳に相楽 (そうらく)郡一座「相楽(サカラカノ)神社」と
明記されていることがわかりました。
それまでは誉田(ほむだ)別命(わけのみこと)(応神天皇)・神足仲彦命(かんたらしなかひこのみこと)
(仲哀天皇)・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)の八幡神を祭祀しているので、
八幡宮神社の総称である「八幡宮」と呼ばれてきました。

004s.jpg
ここで全員揃って記念撮影しました。
近辺にどなたもおられませんでしたので私が撮影です。

220s.jpg
JR西木津駅まで行き一応解散。
皆様落伍者もなく無事終了しました。
ご参加の皆様、有難うございました。

046s.jpg
6月1日は天理へ (下) !
010s.jpg

参拝、回廊掃除、昼食後は久しぶりに石上神宮(下)へ。
013s.jpg

014s.jpg
新緑がとても綺麗でした!
029s.jpg
この拝殿(上)は国宝です。 
posted by osamu ちゃん at 20:13| 京都 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史探訪サークル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

八幡市・背割堤の花見 他

010s.jpg
昨日(4月5日)は歴史探訪サークルの仲間と八幡市・背割提の花見へ行ってきました。
天気も良かったので岡井先生を含めると35名の参加。
現地も人手で満杯で1km程度歩いてやっと宴会の適当な場所を
先発隊が見つけてくれた様です(下)。、
012s.jpg

017s.jpg
上の標識は木津川・宇治川・桂川の3川合流から1km上流地点を表示。
我々の休憩地はさらに奥の500m下流地点付近です。

021s.jpg
上の集団が我々のグループです。
029s.jpg
これ(上)が、ほぼ1時間経過した処です。

058s.jpg
上は宇治川側の土手を降りた処で左上に新しく出来た さくらであい館(展望台) が見えます。



071s.jpg
サークル仲間に誘われて さくらであいクルーズ にも乗船しました。
さくらであいクルーズ.jpg
上の様に桜が満開であったらもっと最高でしたが、良い経験をさせて頂きました。

私のブログで振り返ってみますと、この八幡・背割堤へは
丁度8年前のこの日(4月5日)に来ているようです。
この時は初めての経験で、満開だったのが特に印象に残っています。

4月8日 追記

昨日(4月7日)は55年前入社当時の先輩の方々と
がんこ京都駅ビル店で一杯(下)をやった後、
017s.jpg
また、鴨川辺を歩いて桜(下)を鑑賞してきました。
060s.jpg
059s.jpg
素敵なアベックさんともお会いしましたよ!(下)
040s.jpg
posted by osamu ちゃん at 13:32| 京都 ☔| Comment(7) | TrackBack(0) | 歴史探訪サークル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする